蛇花神婚譚
Work by もっさん
土砂降りの雨の中、馬車の車輪は泥を蹴飛ばし進み、道行く人々は空模様を気にしながら足早に屋根のあるところへ避難を始めている。肌に突き刺さるほどに勢いよく降り注ぐ雨は土を削り、塗装された街道に小さな流れを作るほどだった。そんな雨から逃れようと右往左往する人混みの中、一人緩慢な速度で歩く者がいた。俯くローブの頭巾の中にも打ちつける雫を気に留めることなく、茫然自失といった体で歩みを進めるのはフィーチェである。彼女はレヴィの元から逃げ出した後、ここ豊穣神の領域内に戻って来ていた。
(寒い……)
雨風に晒されて冷えた体の端々がかじかむ。視界が滲むのもこの寒さのせいだろうか。それとも。
フィーチェはまつ毛に溜まった大粒の雫を震える指先で拭うと顔を少しあげた。暗雲たちこめ雨粒にかすむ大気の中であっても、高くそびえる豊穣神の城はその姿をぼんやりと映し出していた。
『もう最悪だよ』
『なんで君みたいなのが』
頭のなかでガンガンと先刻の投げつけられた言葉が反響しては消えていく。
「本当に……最悪ですわね、わたくし……」
自嘲の薄ら笑いを顔に貼り付けながら呟けば、胸の奥の柔い部分がズクリと鋭く痛む。臓物から血がしたたるような痛みと共に重い足を引きずって歩き続けるフィーチェには、もうレヴィの元に戻るという選択肢はなかった。
(レヴィさまの大切にされていた物に勝手に手をつけてしまったのですもの。許されるはずがありませんわ……)
それもサクナダイナホヒメとの思い出の品だと言うのだから、なおのことである。急遽、遠くに嫁ぐことになったという彼女は、レヴィに対してせめてものよすがにとあの米を託したに違いない。その特別な別れの品を台無しにして踏みにじってしまった。その罪と責任の念が重くフィーチェの肩にはのしかかる。
(ちゃんと謝りもせず逃げ出してしまって……でも今更、戻ることもできませんわ)
そもそもが最初から無理だったのである。こんな何をやらせても失敗ばかりの者が誰かと共に在ろうなどと。自分には一人で部屋に引きこもって、細々とかろうじて生きていくのがお似合いだったのだ。きっと、そうだ。そうに違いない。だから
「戻りましょう……」
レヴィの元ではなく自分の元居た、本来在るべき場所に。
*
「……ただいま戻りました」
「追い出されたか」
門の前でフィーチェを出迎えたアシュブランテはやや眉間に皺を寄せて開口一番に問いかけた。フィーチェは彼女の前までゆっくりと歩み寄ると、下を向いたまま力なく首を横に振る。
「いいえ」
言葉少ななフィーチェにアシュブランテが、では、と重ねて問いかける。
「レヴィアーナがお前に無体をしいたか」
「いいえ」
いまいち状況の見えない回答にアシュブランテは更に眉間の皺を深くしながらなおも問いを重ねた。
「何故戻った」
咎めるような問いかけに一瞬ぐっとフィーチェは言葉を詰まらせたが、ぽつりぽつりといきさつを話し始める。
「……わたくしが、わたくし自身でレヴィさまに相応しくないと判断したためです」
言葉をなんとか絞りだすためにフィーチェは大きく息をつく。自分の意思とは関係なしに震える声を叱咤しながら続ける。
「わたくしはレヴィさまの為に、レヴィさまに喜んで頂けることをしなくてはいけないのに、やることなすこと全て失敗で迷惑ばかりかけて……」
どんどん声がしぼんでいって喉の奥で嗚咽から言葉が絡む。
「自信がなくなってしまいましたの……レヴィさまにはきっともっと綺麗でみなからも慕われている、立派な方のほうがお似合いなのです。わたくしなど、とても……」
「それで?」
視界が滲んで目頭に大粒の雫ができ、思わず顔を覆ったフィーチェの頭上から固い声が降ってくる。顔を上げればアシュブランテが静かだが鋭い目でフィーチェを見降ろしていた。
「自信がなくなったとかいう手前勝手な都合で、この神婚をなかったことにしたいと?」
目元をすがめ噛んで含めるように言うアシュブランテの言葉に否定も肯定もできず、フィーチェは固まってしまった。「神婚をなかったことに」。本来であればそのつもりで戻ってきたのに、いざ言葉にされると失うものの大きさに体が震え始める。
(失う……? そんな、まるで一度でもわたくしの手の先にあの方がいたかのような思い上がりは……)
脳裏にいつぞやのレヴィの姿がよみがえる。今まで数えきれないほど陰から盗み見てきたあの姿。あの笑顔も親しげな眼差しも、全て真正面から受け止めた事がなかったというのに。臆して物陰から進み出ることのできなかった意気地なしの自分が何を考えているのか。おこがましいにも程がある。
「そういうことだな?」
「……」
フィーチェが二度目の問いかけにも応えることができずにいると、アシュブランテは一つ長く大きなため息をついて―――俯くフィーチェの頬をはった。ぱんっ、と乾いた音が二人以外に誰もいないはずの空間に響き渡り、勢いでフィーチェの顔から飛んで行ってしまった眼鏡が遠くでかしゃんと華奢な音をたてた。
「お前は私が直々にいっぱしの神として育てあげた。教えられることは全て教えてきたはずだ。だが、めそめそ泣いて己の責務から逃げ帰るような、そんな腑抜けに育てた覚えはない。甘ったれるな」
横を向いたままのフィーチェの目元からついにこらえ切れなくなった雫が溢れると、それを合図にするかのように我慢していたはずの嗚咽もせりあがってきて彼女はしゃっくりを上げて泣き始めてしまう。それを見てアシュブランテが更に手を振り上げた時、その手首を横から掴む者がいた。
「出てくるなと言ったはずだが」
冷ややかな目線の先に翻る紫紺の衣にフィーチェは顔を覆っていた手をほどき、見覚えのある背中に目を見張った。
「レヴィアーナ」
いっそう厳しい声で呼びかけられたレヴィは丁度、アシュブランテとフィーチェの間に滑り込むようにして割り込み、フィーチェを背中にかばって立っていた。彼はひるむことなく声を張って抗議する。
「ぶつなんて聞いてませんよ」
「言う必要がなかったからな。どけ、そこの甘ったれに話がある」
今度はフィーチェの方を見やりながらアシュブランテが言うのに、その視線を遮るように立ちはだかりながらレヴィは反論した。
「フィーチェは甘ったれなんかじゃない!」
負けじと真っすぐに視線をかち合わせながらレヴィは続ける。
「俺の為に自分を変えようとまでしてくれた努力家なんだ! それを知らずに勝手なことを言うな!」
すると今度は掴まれていない方の腕を振ってアシュブランテはレヴィの横っ面を思い切り殴った。ばちんと低い音が響き渡る。
「口を慎め。シャルカに目上への礼儀を教わらんかったのか。第一これは我々、豊穣の一族の問題だ。部外者は黙っていろ」
その言葉に、きっ、とレヴィがアシュブランテの正面へ向き直る。その顔には闘争心とも負けん気とも違う、覚悟のようなものが滲んでいるのにアシュブランテは気がついた。彼女が何事かを言う前にレヴィが言葉を畳みかける。
「部外者じゃない! 俺はフィーチェの婚約者だ。この子は俺が引き取る!」
言うやいなやレヴィは驚きに固まるフィーチェの手をひっぱって出て行ってしまった。状況がつかめずフィーチェはされるがままに手を引かれて行ってしまうが、アシュブランテは追いかけようという素振りさえ見せない。まるでこの展開が読めていたかのように、どこか呆れたような、けれども満足気な顔をして二人を見送る。傍目には渋い顔をしているようにしか見えないが、その表情の真意を唯一知る者が柱の陰からおもむろに姿を現した。
「随分と荒い子離れだったな」
進み出てきた人物を振り返ろうとせずにアシュブランテが口を開く。
「盗み聞きとはいい趣味だな、シャルカ」
毒気のある言葉だがなんてことのないように受け流しながら、シャルカはのんびりと笑みをたたえて門の方へ顔を向ける。アシュブランテの視線の先で二人の背中が小さくなっていくのを、彼もまた満ち足りた表情で見ていた。
「最後の教育なんだ。荒くもなる。第一それを言うならお前の方こそ物事の進め方が随分と雑だったな。レヴィに一言も相談なく新居に放り込んだとか聞いたぞ」
もう二人の姿がすっかり見えなくなるくらいまで見送ってからアシュブランテが再度口を開いた。彼女が踵を返し自室へ戻ろうとするのに付いて行きながら、シャルカは「ああ、そのことか」と相変わらず呑気そうに思い返す。
「あれはなぁ、少しばかり神経質なきらいがあるからなぁ」
あれとはレヴィのことである。シャルカは顎をさすりながら続ける。
「事前に打診してはあれこれと思い悩んで逃げ出すと考えてな。それならいっそのこと直前になるまで伏せていたほうがいいと考えた。まぁ良い塩梅に雨が降って地が固まったのだから、よかろう」
けろりとした顔で言ってのけるシャルカを横目に見てアシュブランテはうんざりとした顔をした。
「お前は本当、昔からそういういい加減なところがあるよな……」
「照れる」
「褒めてない」
即座に否定をするアシュブランテに特段、気分を害した様子もなくシャルカは続ける。
「まぁまぁ全て収まるところに収まったのだから祝杯でもあげようではないか。久しぶりに美味い酒でも飲みたい気分だ。ほれ、あれ、お前の部屋に飾ってある年代ものの葡萄酒があろう。あれを開けよう」
「わかった、わかった。分かったから勝手に部屋に入るな」
とことんまでマイペースな振舞いに慣れた様子で返しながら、アシュブランテは今一度、門のある方角を振り返った。今頃、彼らは帰路についている頃だろうか。
(あのチビがいつの間にか言うようになったもんだな)
あいつにあの子を任せて正解だったと、一人アシュブランテは微笑んだ。先にいそいそと部屋に入り飾り棚を物色していたシャルカがそんな彼女を急かす。
「グラスはこれでよいか。あとつまみも欲しいぞ」
「……わーったよ」
よくこの親神からあんな奴が育ったものだと、笑みを崩しながらアシュブランテは嘆息した。
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