蛇花神婚譚

第11章 嫁も逃げた

Work by もっさん

 『レヴィちゃん』

 睡魔の中でたゆたうレヴィに懐かしい声が届く。もう随分と聞いていない、あの人の声だと認識すれば、声の主はあの日のままの形を伴ってレヴィの前に姿を現す。頭を垂れる頃の稲穂のような淡い黄金色の髪が揺れ、レヴィの胸にはもう遠い昔に手放したはずの幼い憧れが切なさと共に去来した。

 -稲穂の姉ちゃん!

しかし名を呼び手を伸ばしても彼女との距離は縮まることはなく、遠くから響く声を拾うことしかできない。

『レヴィちゃん……あのね……』

-なんて言ってるの?よく聞こえないよ

 耳を澄ませながら彼女の口元に目を凝らすも、なんだか視界がぼんやりとしてよく見えない。そのうえ全身が水の中に沈んでしまったかのように緩慢な動きしかできず、その場でゆるくもがくことしかレヴィにはできなかった。

『あの子はね……だから……』

-なんて? あの子って誰のこと?

 そうこうしている内にレヴィには覚醒の波が迫って来て意識が現実へと浮上していく。己の意思とは関係なしに終わりへと向かいつつある夢の中、うつつへと帰っていく彼の耳に微かだが確かに言葉が届く。

『守ってあげて』

何を何から守ればいいのか訊くこともできず、レヴィは窓から差し込む朝日のなかで目を覚ました。

(妙な夢をみたな……)

朝の身支度を整えながらレヴィは先ほどまで見ていた夢の内容を反芻していた。稲穂の姉ちゃんことサクナダイナホヒメとはもう数百年も会っていない。彼女が急に輿入れしてからというもの便りの一つもなく、音沙汰がないのだ。どこへ行ったのか、誰の元へ輿入れしたのか、周りに尋ねようにも何故かはぐらかされるばかりで要領を得ないので、いつしか何も訊かなくなってしまったのだった。

(こんな状況だから思い出したのかもな)

自分もまた不本意ではあるが神婚を控えている身であるため、同じ境遇であったはずの彼女に何か思うところがあったのかもしれない。そう考えながら顔を洗っていると香ばしい中につんとした苦みのある香りがレヴィの鼻孔をくすぐった。台所の方でフィーチェが朝食の準備をしているのだろう。神にとって三食の食事は必ずしも必要ではないのに毎回、律儀なものである。

(しかしこの匂い、どこかで嗅いだことがあるような)

よく親しんだ香りが漂ってきているような気がして、レヴィは顔を拭きながら記憶の引き出しをひっくり返して答え合わせを始める。……どうしてだろう。何故だか急に胸の落ち着きがなくなってきたレヴィは、身支度もそこそこに引き上げて部屋を出た。廊下に出れば食事支度の匂いがより鮮明に香ってくる。苦みの中にあるほのかに甘い香りは穀物の焦げる匂いだろうか。

(米でも炊いているのか?)

フィーチェがまたいつもの失敗を重ねたのだろうと見当をつけながらも、今だけは胸のざわつきの追い立てるままにレヴィは足を急がせた。廊下を抜け中庭へと続く回廊を渡り、突き当たった扉を開ければ居間である。もう何度も行き来したそこが今日に限って妙に長い道のりに感じつつ、レヴィは部屋の中へ進み入った。見ればフィーチェが食卓に朝食を並べているところだった。

「おはようございます、レヴィさま。お食事の準備ができていますわ。今朝はビリヤニを作ってみましたの! 初めてですけど上手にできたと思います。さ、食べましょう」

と、彼女が嬉しそうにしながら小さい巾着をしまうのを、レヴィは見逃さなかった。

「待って、それどうしたの。どうして君がそれを持っているんだ」

険のある声に固まったフィーチェが手に持つそれは、レヴィがよく見知ったものだった。いや、見知ったどころの話ではない。幼き頃、サクナダイナホヒメと田に降り共に汗して植えた、あの思い出の米が詰まった巾着だった。大事に誰の目にも触れないようにしまい込んでいたはずのものだ。何故、どうしてそれを彼女が。

「えっと、あの……」

にわかに苛立つレヴィに驚き、フィーチェは要領をえない顔で巾着と彼を交互に見やった。歯切れの悪い彼女に余計に神経を逆なでられるのを感じながら、レヴィはその手から巾着を無造作に奪い取る。ぱんぱんに米が詰まっていたはずのそれを手に持てば、くたりとして中身が減っているのを再確認し、やはりかと落胆する。目の前に並んだ食事に使われているのはこれか、と。同時にどうしようもなく怒りがこみ上げてくるのをレヴィは感じた。おそらく彼女に悪気など一切なかったのだろう、と自分に言い聞かせながらも湧きたつ気持ちを抑えられずにレヴィは気持ちを吐き出し始める。

「これは俺が稲穂の姉ちゃんと一緒に作った米だ。いつか姉ちゃんが戻ってきたときに一緒に食べようと思って大事にとっておいたやつだ。どうしてそれを君が持っているんだ!」

突然声を張り上げられ、びくりとフィーチェが震える。

「わ、わたくしは……」

顔面蒼白になった彼女は視線を彷徨わせ、それ以上継ぐことができる言葉を持ち合わせていないように見えた。

「……」

二人の間に鉛のように重い沈黙が横たわる。何か弁解があれば聞こうかと思ったがフィーチェは肩を震わせながら足元に視線を落とし、黙したままだった。怯えて二の句が継げなくなっていることはレヴィにも分かっているが、同時にそれがまるで「こちらこそが被害者だ」と言わんばかりの態度に見え、釈然としない思いがつのった。そうしている内に沈黙と苛立ちの中で今日までフィーチェに掛けられた数々の迷惑が走馬灯のように駆け抜けてくる。失敗作の料理を食べさせられそうになったこと、お香を焚いてボヤを起こしたこと、頭に花瓶を落とされた事……こんな時に限って腹の立つことばかり思い出してしまうものだとレヴィは嘆息した。

「……本当に君は俺に迷惑ばかりかけてくれるよね」

もう、うんざりだ。

「何やっても失敗ばかりして、その尻ぬぐいはいつも俺。ここに来てから君が何かひとつでも満足にできたことがあった? ないよね」

これ以上言ってはいけないと、責めてはいけないと思いながらも怒りに突き動かされて口が、言葉が、自分自身が止まらない。握っていた巾着をフィーチェの顔前に突き付ける。中身が減ってしまったそれはざらり、と小さく乾いた音をたてた。フィーチェが泣くのをこらえるように息を飲むのには気づかないふりをしてレヴィは続ける。

「これだってひと言俺に相談してくれればよかったのに、どうして何でもかんでも黙ってするのさ。失敗するの分かってるでしょ? それとも自分はこれぐらいのこと、できると勘違いしてたの?」

言葉を重ねれば重ねるほどに苛立ちは発散されていくどころかむしろ積み重なっていき、レヴィとフィーチェの間に決定的な溝を広げていく。

「もう最悪だよ」

そして引き返すことができない程の言葉をレヴィの口から紡がせる。

「なんで君みたいなのが俺の結婚相手なんだよ」

その瞬間、弾かれたようにフィーチェは駆けだした。レヴィのすぐ横をすり抜け居室の出入り口の向こうへとバタバタという足音を残して消える。レヴィは追いかけなかった。

出て行くなら勝手に出て行けばいい。こっちは知ったこっちゃない。むしろ清々するほどだ。このままアシュブアランテの元に行って神婚をなかったことにしてくれと泣きつくまでしてくれれば御の字である。それこそ望むところというものだ。だってそうだろう? 最初からそのつもりだったはずだ。だから―

(泣いてた)

そんなことどうだっていいじゃないか。嫌われるのが当初の目的だったのだから、それぐらい覚悟の上だっただろう? 罪悪感なんて一時のものだ。そもそも迷惑かけられていたのは俺の方だったんだから泣かれるなんてお門違いなはずだ。

自問自答と言い聞かせを胸中で繰り返してレヴィは、やりきれない気持ちを持て余しながらソファに身を沈めた。気持ちを落ち着かせるように体から力を抜き、天井のシーリングファンを仰ぐ。ゆったりと回り続けるそれを眺めていれば苛立ちも怒りも少しは鎮まるかと思ったが、予想に反して胸の中は依然として小さな炎がくすぶり続けているかのようにざわついている。

(言い過ぎたか? でもあれぐらい言わないと通じないし……)

そうだとも、あれぐらい厳しく言った方が良いに決まっている。彼女は遠回しの皮肉などものともしない図太い神経をお持ちなのだから、はっきり迷惑だと告げないといつまでたっても自分が不出来だと弁えようとしないだろう。

(今朝の料理だって失敗してるし)

食卓へ視線を向ければせっかくの上等な香り米が台無しになったビリヤニが所在なさげに鎮座していた。あれを片付けるのも俺の役目かと、何から何まで尻ぬぐいさせる気かと、つくづく嫌気がさす。皿だけでも水に浸けておこう、と重くなった腰を上げレヴィは残飯を手に台所へと移動した。ごみ捨て用の容器の蓋を取り少しためらったが、何も遠慮することなどないんだと思いなおして皿から料理を流しいれる。容器の底でぐちゃりと塊になったそれが、まるで今の自分の気持ちを象徴しているかのように思えてすぐに蓋を閉めた。

(なんで俺がこんな気持ちにならなきゃいけないんだ)

水を張った桶に食器を適当に放り込み、レヴィはもう何度目になるか分からない溜息をついた。むしゃくしゃとした気持ちと罪悪感、そして少しばかりの自己嫌悪がないまぜになって整理がつかずにいたのだ。

(お茶でも淹れるか……)

とにかく落ち着きを取り戻したくて茶葉を手にテーブルへ近づくと、出しっぱなしの食器や調味料類に混じって一つ、異質なものが置かれているのに気が付いた。表紙には何も書かれてないが随分と分厚い本が、何故か台所のテーブルの上に調理器具の間から顔を覗かせていたのだ。思わず手にとったそれは、よく見れば日記帳のようだった。レヴィに日記をつける習慣はない。ならば状況的に考えてフィーチェのものだろう。流石に人の日記を勝手に見るわけにはいかないと、すぐにテーブルの上に戻そうとしたレヴィだったが、ふとページから飛び出した付箋に自身の名が記されていることに気づき、手を止めた。さらによく見ればそのような付箋は一つだけでなく、いくつも日記帳の間に挟まれているようだった。

(なんで俺の名前が……)

しばしの逡巡の後、レヴィはその付箋がついたページを開いてみることにした。

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