蛇花神婚譚

第6章 初めての外

Work by もっさん

『お前には婚儀前の一週間、レヴィアーナとの相性を確かめるために同棲の期間を設ける。同じ屋根の下で相対し共に戯れるなり興じるなりして、存分に懇ろになることがお前の役目だ。一週間後の婚礼の宴までに……そうだな、レヴィアーナから家を追い出されることがなければ良しとしよう。まぁそう難しく考えるな。あいつにならお前を任せられると見込んで選んだんだ。ありのままの自分で行け』

単身、豊穣神の城を出る際に言われた言葉を思い出す。人々が数多く行きかう賑やかな城下を抜け、こっそりひっそりとなるべく人通りの少ない方を選んで移動する。当面の生活で必要なものは既に新居へ送ってもらっているそうだから、手持ちの荷物は少なく軽い。だというのにこんなにも疲れているのは、初めて目の当たりにした喧噪や鮮やかな街並みに目がくらんでしまったせいだろう。生まれてからアシュブランテの庇護の下、城内の限られた区域でしか生活してこなかった自分には随分と刺激が強い。出る前は少しばかり街を散策して手土産の一つでも買ってみようかと考えていたが、そんな余裕も今はもうない。

「早く新居に行ってしまいましょう……」

なるべく誰とも目が合わないように目深にフードをかぶり直して足早に進む。全身をすっぽりと覆い隠すローブを着て、ビクビクと俯きながら歩くという不審者極まりないフィーチェだが、幸いなことに誰も彼女のことを気にとめてはいないようだ。ここ豊穣神の領域は広大な農地を有する天界の台所ともいうべき場所であり、農作物や畜産物の売買を行う市場や種々折々の専門店が数多く軒を連ねている。行きかう人々も他領から来た卸や行商人など様々である。少しばかりビクビクモソモソしていたところで人込みに紛れてしまうだろう。だというのに、どこかフィーチェは不安だった。

こんなに多くの人がいて自分は変に目立っていないだろうか? 気のせいだろうか、なんだか視線が集まっているような気がする。あ、今笑われたのはもしかして自分のことだろうか?

初めてだらけの環境がフィーチェを疑心暗鬼と心細さに苛み、早く誰もいない場所へと更に足を速める。走ってもいないのに少し呼吸が荒くなってきた。

(アシュブランテ様の仰っていた通り、外は怖い場所ですわ)

自室のバルコニーから何度も見下ろし夢を描いていたこの街は、思っていたものとは違っていた。押し寄せるような人込みが、想像よりも高い街並みが、こんなにも怖く感じるなんて遠くから眺めるだけでは分からなかった。と、そこで喧噪から文字通り逃げるようにして遠ざかったフィーチェの視界に、どの建物よりも大きくそびえる門扉が飛び込んでくる。あれだ、とフィーチェは安堵の息をついた。

(あれをくぐれば新居に行けますわ)

門に近づくにつれて再び人通りが多くなっていくのに足が重くなる。大通りを一つ二つと抜け、果物や野菜の瑞々しい香りのする露店通りをなんとか突っ切ると、やがて目的の建物が見えてきた。

(やっと着いた)

手近な建物の陰に入って呼吸を整えるフィーチェは、胸に手をあてながらその堅牢な門扉を眺めた。開け放たれた門の下から多くの人が、物が、ぶつかりそうになりながら密集して流れを作っている。人よりも大きな荷物を背に載せた牛や、採れたての果実を箱一杯につめて運ぶ荷車。検問を待つ人々の行列。戦神の領域から派遣されてきている警備兵たち。ごちゃごちゃとした人の波ができていた。

「これからあそこに並ぶのですね……気が滅入りますわ」

びっしりと立ち並ぶ人垣に肩を落とすも、ぱちんと頬を叩いて顔をあげる。思いのほか強く叩きすぎてじわっと涙がでてきてしまった。だが、逃げてはいけない。ここを通り抜けさえすれば新居はすぐそこだ。そして……

(レヴィさま)

あの人にようやく会うことができる。長年焦がれていた、あの人に。伝えたいことが沢山ある。聞きたいことも沢山ある。一緒にしてみたいことだって沢山ある。

(だからわたくし負ける訳にはいかないのです)

憧れのあの人を思い描いて、最後に残った一抹の根性を集結させたフィーチェは一歩、前に踏み出した。フィーチェの神婚成立にむけたイイ女作戦の幕があがった瞬間だった。

自分を好きになってもらうにはどうすればいいのだろう。アシュブランテは「ありのままの自分でいけ」などと言っていたが、そのままの自分を受け入れてもらえる自信などフィーチェには毛先の程もなかった。なにせ自分は生まれてからずっと限られた空間でしか生きておらず、あらゆる経験に乏しい。アシュブランテや兄神といった身内以外の神とは会う機会がないため、知人はおろか友人の一人もおらず、一日中ずっと自室に引きこもってアシュブランテから振られる仕事を細々とこなすだけの毎日を送っていた。

(それを窮屈に思えど不満に思ったことはないのですけど……)

検問の列に並びながらフィーチェは、婚儀に先立ちこっそりと兄にねだって見繕ってもらった雑誌のページをもてあそびながら口をとがらせる。世間知らずな自分よりも一般に流通している書物のほうが常識的だろうと考え、参考に読み始めたものだ。何度も繰り返し読み返したそれには流行りの甘味やファッション、行楽情報の他に「男性に惹かれる会話術のコツ」なんて記事が書かれていた。他者と仲良くなる第一段階として対話がもっとも重要なプロセスであることは、フィーチェにも重々理解できる。しかしいっぱしの神としての経験に乏しい自分にまともな会話ができるだろうか。引きこもり生活では日がな一日誰とも話さず仕事の書面としか顔を合わせなかった日々もあったし、身内とする会話だってここ数百年はもっぱら仕事に関連したものだけだった。それこそ年頃の女神ならやれ茶会だと友人と美味しいものを食べたり、やれ買い物だと流行りのものを見に行ったり、はたまたやれ恋バナだと気になる男神の話に花を咲かせたりするものだろうが、自分にはそのような経験は皆無である。みなが一度は見に行くという太陽神の領域での観劇だって行ったことがないし、上級神であれば必ず出席するという神議にだって出た事がない。食べるものにも興味がわかず何も食べずに過ごす事の方が多い。これでは男性に惹かれる会話はおろか、まともな世間話ができるかすら危ういというものだ。

(殿方に引かれる自信ならありますわね……)

ふっと自嘲気味に笑みがこぼれる。伝えたいことや聞きたいことが沢山あるとはいえ、どのように切り出せばいいのか、いかに話せば失礼ではない話し方ができるのか、あるいはどうすれば相手を楽しませることができるのか、その方法がフィーチェには分からなかった。だからこそ書物から知識だけでも得て己のコミュニケーション能力に下駄を履かせようとしているのだが、そこに書かれている実践法はフィーチェにとって非常にハードルが高いものばかりに見える。

(このボディタッチとかいうものは本当に効果があるのでしょうか? ベタベタするのは逆効果では?)

しかし実際そう書いてあるのだからそうなのだろう。自分もレヴィさまにできるだろうか? お会いできるという事実だけでも卒倒しそうなくらいドキドキしているのに、ましてその体に触れるなどと。しかしありのままの自分では恋愛方面に関して何の打ち手を持ち合わせていないのだから、これで男性に好かれることができるというなら実践するよりほかはない。どのみち後悔するような結果になっても、どうせするならやってから後悔した方がずっと良いような気がする。

そんなことを考えながら次のページへと目を通す。端に折り目をつけて目印としていたそのページには、特に大事だと思われることが書いてある。『手料理特集』と銘打たれたそれをフィーチェは目を皿のようにして黙読する。

(古来より殿方を射止めるには胃袋を掴めとはいいますが、わたくしにこのような手のこんだものが作れるでしょうか?)

先ほどもいったようにフィーチェには食に関する興味がない。そもそも不老不死の体をもつ神にとって食事とは生きるために必須のものではないため、天界では完全に娯楽の一種となっている。地上の人々と同じように三食きっちり食べている者もいれば、会食の席など公の場では食べるものの普段の生活では一切食物を口にしない者もいる。フィーチェはどちらかといえば後者である。彼女の場合、上職にあたる豊穣神アシュブランテのもとへ領内で収穫された作物が献上品として納められるため、それらを後学のために試食するよう言われる事が多かった。食べ物を口にする機会といったらその程度である。しかもその際には調理らしい手順を踏むことなくだいたい生のままで食べていたため、フィーチェは料理の経験も全くないということになる。誌面に書かれているような手間暇のかかった手料理はおろか卵ひとつ自分の手で焼いたことすらない。

(そもそもわたくし火は怖くて使えませんし、獣のたぐいも食べないのですけど……)

豊穣神眷属であり草花の生育を職能にもつフィーチェは生まれ持って火に対する恐怖心が人一倍強く、また植物は動物に食べられるという食物連鎖からくる影響だろうか、卵や肉といった動物性の食べ物を好まなかった。野菜や果実を洗ったままかじることしかしてこなかったため、誌面に書かれている男性の胃袋を掴むとかいう肉類をふんだんに使ったガッツリ系メニューの数々に最初読んだときは目を丸くさせたものである。

(でもやってみせますわ、レヴィさまの為ですもの)

彼が酒豪で甘いものや卵料理、また香辛料入りの食べ物のような刺激性のある料理を好むことは事前にリサーチ済みである。リサーチといってもレヴィがシャルカの使い走りでアシュブランテのもとに来た際、こっそり会話を盗み聞きした程度のものだが。それでも壁に耳をあて漏れ聞こえてきた言葉は引きこもりのフィーチェにとっては大変貴重なものだったので、事細かに日記帳に書き溜めては何度も見返したものである。

(お酒は甘露のような甘いものがお好きで炭酸も召し上がる。卵料理は生よりも茹でたものがお好きで、スパイスは特に胡椒がお好き)

頭の中で復習しながら読みふけっていると、ふいに後ろから背中をとんとんと叩かれる。振り向けば荷車を引いた精霊が不機嫌そうに前を指さしていた。

「前、進んどくれ」

顔を上げれば前の人との間にだいぶ距離ができてしまっていた。フィーチェは急いで謝りながら雑誌を鞄にしまい、前へと詰める。浮き立つ気持ちから一転してフィーチェは一気に重苦しい気持ちになり、肺の中の空気をいっぱいに吐き出すような溜息をついた。

(……また失敗してしまいましたわ。どうしてわたくしはいつもこうなのでしょう)

肩を落として自己嫌悪の思考に沈む。普通の人であれば些細な失敗だったと気に留めることもないのだろうが、フィーチェにとっては重みが全く違う。

『お前のその要領の悪いところ、もう少しどうにかならんもんか。この先苦労するぞ』

以前、アシュブランテから言われた苦言が頭の中で反響する。フィーチェが普段共に仕事をすることが多いのは直属の上司にあたる彼女なのだが、しょっちゅう仕事の完了が遅れてしまい、いつも迷惑をかけてしまっていた。フィーチェの仕事はアシュブランテの補佐が主であり、天界の草花の成育管理と品種改良を担っている。実際に草花に触れたり薬品をいじったりするような研究をしている時には問題ないのだが、たいてい作業にのめり込みすぎてその後の報告書作成など事務作業の時間が取れなくなってしまい仕事が後ろ倒しになってしまうことが何度もあった。その度にフィーチェも自分なりに改善できるよう問題点を洗い出し作業効率をあげるよう努めているのだが、彼女は効率を上げても浮いた時間の分だけ更に研究を深めて作業に入ってしまう悪癖があった。早く作業を終えてしまおうと一度集中すると逆に目の前の仕事に没頭しすぎてしまうといった具合で、気づいた時にはもう残り少ない時間で残務処理を行うしかなく、すると今度は焦ってケアレスミスが続出するという悪循環に入ってしまう。一度焦り始めると何もかも上手くいかなくなってしまう性分もあってか、あるときには丸一日失敗の後始末だけで終わってしまうという日もあったほどである。

(レヴィさまの前では失敗しないようにしなくては)

憧れの人に無様なところは見せられない。しかし仮に失敗するようなことがあっても笑顔でやりすごす事が肝要だと、さきほどの雑誌には書いてあった。上手くいかないことがあってもニコニコ笑っていればポジティブな女性だということでむしろ印象が上がるのだという。ポジティブ―根暗で内向的なフィーチェにとって最も縁遠い文言である。

(そもそも失敗してニコニコしてたら反省してないように見られないでしょうか? でも書物にはそのように書いてありますし、普通の感覚ではそういうものなのかもしれませんね)

後で鏡を見ながら笑顔の練習をしておこう、と両頬を揉んでいるといよいよフィーチェの検問の番がやってきた。受付の精霊が手元で書類に書き込みをして忙しそうにしながらフィーチェに対応する。

「通行手形をお持ちですか?」

はい、と返事をしかけて気づく。手に持っていたはずなのに、ない。すぐに見せられるように出しておいたはずなのに。

「お持ちではないのですか?」

「いいえ、持っています! 少々お待ちになって……」

事務的に催促する声に焦りだしながらも全身のポケットを探ってみる。もしかしたら無意識にしまい込んでしまったのかもしれない。しかし胸のポケットにも腰のポケットにも入っていないようだった。どうしよう、どうしよう、失くしてしまったのかも……! 後ろに並ぶ人々の視線が突き刺さってくるような心地がして、更に焦りが増し少し手が震え始める。すると顔面蒼白になるフィーチェの後ろから、先ほどの精霊が苛立ったように貧乏ゆすりをしながら声をかけてきた。

「鞄のなかは? ちゃんと探せよ」

あっ、と気づいて鞄の中をまさぐる。ガサガサガサと懸命に探していると鞄の一番奥の方、雑誌と一緒になっているのを発見した。そうだ、さっき列を前に詰めた時に焦って二つとも鞄にしまったのだった。ほっと安堵の息をついて受付に通行手形を差し出すと検問の精霊はそれを確認した後、書類に手早く所定の書き込みを行い、またすぐにフィーチェへと差し戻す。

「はい、結構です。お気をつけて」

「あ、ありがとうございます」

まごつきながらも受け取ってすぐに列から離れる。思いがけないところで手間取ってしまったことに胸中でショックを受けながら重い足取りで門へと向かう。本当に何から何まで自分は駄目な者だと気落ちが止まらない。

(こんな気持ちでレヴィさまにお会いしたかった訳じゃありませんのに……)

笑顔、ポジティブ、と書物での文言を思い出してフィーチェはこめかみのあたりを揉む。すっかりしょぼくれた表情筋はうまく上向いてくれそうにない。

「こんなことでこの先やっていけるのでしょうか……」

人知れず不安な気持ちを引きずりながらフィーチェは下を向いて門をくぐった。

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