蛇花神婚譚
Work by もっさん
『申し訳ないって何が?』
投げやりに応えたレヴィの横顔が今思い出しても胸に突き刺さる。書物にあるように明るくポジティブに振舞ってみたものの、やはり素直に謝罪したほうがよかっただろうか。
「お香に、アロマオイルに、花瓶に……それとお見送り。失敗ばかりですわ」
日記帳に自身の失敗を記録しながらフィーチェは盛大に溜息をついた。吐いた息でページの端がふわふわと揺れる程である。だが気持ちが沈み込んでいるのは失敗を重ねたことだけが原因ではない。
「やっぱり覚えていらっしゃらなかったですわね……」
フィーチェは小さい頃に一度だけレヴィと会ったことがあり、そのことを唯一無二の思い出としてずっと大切に胸に秘めていたのだが、レヴィの方はそうでなかったようだ。あっさりと覚えていないことを告げられ、小さい頃のことだから仕方ないとは思いつつも気持ちの整理がつかず胸のなかがもやもやとする。自分ばかりが覚えていて相手はそうではなかったという不均衡さに、ショックとみじめさを感じていたのだ。
(大事な思い出だと思っていたのはわたくしだけで、レヴィさまにとってはそうではなかったということですのね……)
仕方がないことなのだ。彼は引きこもりの自分と違って日々、様々な人や出来事に触れ沢山のことを吸収して成長してきたに違いない。きっと桃園での出来事よりも鮮烈で印象的な経験も多くしてきたことだろう。その中にあって自分との出会いが埋もれてしまうのは仕方のないことなのだ。
「とはいえ、やっぱり落ち込みますわ……少しくらいは覚えていらっしゃると思ってましたのに……。いえ、もうこのことを考えるのはよしましょう。過ぎた事をいつまでもくよくよしていてはいけませんわ」
そう空元気で呟きながらフィーチェは日記帳をめくり、まっさらなそのページに新たな文章を書き連ね始めた。言及するのは今朝レヴィに出した水出し茶とメレンゲ菓子のことである。火種石での着火が思いのほか怖かったためなんとか火を使わずに調理できるものがないかと、苦心の末に見つけ出したレシピであった。火を使わないだけで大分気が楽になり、変に緊張せず事にあたれたお陰で調理も配膳も十全に行えた。その甲斐ありレヴィからの反応も良好だった。
「ぐふふ……お茶もメレンゲ菓子も完食していらっしゃいましたわ。頑張って作った甲斐がありました。これで一つくらい挽回できたでしょうか」
しかしこの程度で満足してはいけない。なにせフィーチェの最終目標は神婚成立、レヴィに自分を好きになってもらうことである。マイナスを一つ帳消しにしたところで今のフィーチェには負債が山ほど残っているのだ。もっともっとレヴィに対して自分をイイ女アピールしてプラスを積み重ねていかねばならない。
(もっとレヴィさまの気をひけるようなことができれば良いのですけれど)
しかしここ数日であらかたやろうと思っていたことはし尽くしていた。あれこれと思い出しながらフィーチェは指折数えてみた。手料理に始まり入浴の補助、アロマオイルの差し入れ、楽器の演奏、生け花など、結構色々やってきたつもりである。……失敗に終わったものの方が圧倒的に多いが。
さて次は何をしようかフィーチェが思案を巡らせていると、ふいに物音がして彼女は顔をあげた。いや、物音というよりも声だろうか。誰かが何かを呼んでいるような声が微かにする。
「? ……どなた?」
この御殿にはフィーチェとレヴィの二人の他、誰一人としていないはずで、何者かが入ってきたとしてもそれは上職にあたるアシュブランテかシャルカのはずだ。しかしその二人なら領域に入ってきた瞬間にその神としての存在感だけで来訪が肌に感じて分かるはずである。それに仕事で不在のレヴィが帰ってくるには早すぎる時間だ。ということはそうではない誰かが御殿に侵入したということだろうか。フィーチェは疑問に思いながらも自室から廊下へ頭だけ出し、声の方向を探った。がらんとした誰もいない空間に視線を巡らせるも誰を捉えることもない。しかしどうやら居間の方から呼ばわる声が聞こえてくるような気がする。
「どなたかいらっしゃったのでしょうか」
不用心かと思われるがフィーチェは何の警戒心もなく居間へと続く回廊を歩き始めた。不思議である。何の根拠もないのだが、この声の主はけして自分を害することがないと確信して言えるとフィーチェは感じていた。迷うことなく廊下を進む。
『……―チェ……フィーチェ……』
そうして居間の入り口に立つ頃にはその声が自分の名前を何度も繰り返していること、そして声が耳朶ではなく頭に直接響いていることに気づいたが、それでもなおフィーチェには躊躇がなかった。
(わたくしを呼んでいるのはどなた?)
そっと扉に手をかけて開けると声がより鮮明になって響いてくる。
『フィーチェ』
懐かしく温かい響きを伴うそれは、フィーチェをたちどころに幼い頃の気持ちへと巻き戻した。迷子がようやく母親を遠くに見つけた時のように、心もとないがほっとしたような、そんな相反する気持ちが交差していく。朧げに霞んでしまった記憶に鮮やかな色が差す。
「お姉さま……?」
何もない空間に向かって問いかけたが、それは確信をもっての問いだった。しかし返事はなく、ひたすらに名を呼ぶ声だけが響いている。声はどこからするのか、フィーチェは神経を集中させて探った。部屋の奥、その隅に置かれている荷物の中―そこはレヴィの荷物がまとめられている一画だった。見れば神婚に先だっての贈与品の中に混じってぼんやりと光る小さな巾着がある。煌びやかな色紙で梱包された品々の中にあって少々場違いに感じる、その年季の入った巾着を持ち上げるとジャラっとした乾いた音が鳴る。紐を緩めて中身を覗いてみれば随分と上等な香り米が詰まっていた。ほのかに光をたたえるそれはフィーチェを迎え入れるように一度強く、脈動するように発光するとゆるやかに鎮まって普通の米同様になる。
『フィーチェ』
最後にひときわはっきりと聞こえた声は、彼女が巾着を見つけた事に満足したように嬉しさをにじませていた。そして光がおさまるとそれっきり響いてはこなくなった。
「これを、わたくしに?」
背中を押されたような気がしてフィーチェは巾着を胸に抱き、小さく呟いた。
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