蛇花神婚譚

第9章 初めての感情

Work by もっさん

書物に曰く、男性から好かれる女性の条件とは第一に気遣い上手だという。言われなくとも相手がしてほしいと思っていることを実行することで、そのさりげない心遣いに相手は惹かれるようになるのだという。喉が渇いていると思っているときに飲み物を差し出し、疲れているときには体を揉み解してあげる。そんなことが具体例としては書いてあるが、同時に注意点も付記してある。これらはあくまで例を挙げただけであり、どのようなことが気遣いある行動として正解かは相手によるのだと。喉が渇いていても嫌いな飲み物を差し出しては台無し、疲れているからといって体を触られるのを嫌がる相手に触れては失敗なのだという。だからこそ最も肝要なのは「相手を知る事」だと誌面には赤字で大きく書かれていた。相手が何を好み、あるいは好まないのかを熟知し、相手の様子をつぶさに観察することによってその時求めているものについて適切に行動できるようになるのだと文面は締めくくられている。

最初この「男性に好かれる女性」特集を読んだ時、フィーチェは随分と簡単なことを言っているなと考えたものだった。だってそうである。自分はレヴィのことなら大抵のことを知っているのだ。この数百年の間で盗み聞きした会話から彼のあらゆる嗜好を書きまとめた数多の日記帳がその証拠である。書き記されたことは食や音楽の好みから入浴の際どこから洗うかまで多岐にわたり、その総数たるやレヴィに関することが書かれたページだけまとめても日記帳が床から天井まで積みあがるほどであった。まさか試しに積んでみたら本当にそこまであるとはフィーチェ本人も思っていなかったが。

さてレヴィは雷神という性をもつためだろうか、その趣味嗜好の多くが刺激性のあるものばかりで占められており、例えば食事は香辛料が多く使われているものや炭酸類を使った飲料を好む。また無類の酒好きであり、古今東西あらゆる土地の銘柄を飲みつくした大酒飲みであるとも以前本人が豪語していた。仕事終わりや休日には友人達としょっちゅう酒盛りをしており、その際には雷鳴のように大きな楽を奏じてもらい場をにぎやかにするのが好きだとも聞き及んでいる。前にもアシュブランテから仕事の褒美で貰った酒を実に美味しそうに飲みながら、楽団の奏でる大音量の演奏を心底楽しそうに聴いていたのをフィーチェはバルコニーからこっそり眺めた事もあった。加えて踊りも嗜むようで時には自ら楽団の舞台にあがって小気味よいステップで踊っていたこともある。また身だしなみには人一倍気を遣っているらしく、ピアスをはじめとした装飾品も気分で様々なものをつけているようだった。特に自身を象徴する蛇のモチーフは特別好きなようで、大事な会合の日などここぞという時にはゲン担ぎでつける事もあるという。

以上のようにフィーチェには陰から拾い集めた情報のみとはいえ、それらの長く重い積みかさねからレヴィを熟知している自負があった。そして対面するからにはそれらの情報を生かしに生かしてレヴィの好みを反映した場所・時・居心地を提供し、「レヴィに好かれる女性」にならなければと考えた。そのためまず実行したのは食事だが、これははっきり言って失敗に終わった。フィーチェ自身も調理段階で失敗には勘づいていたが、やはりというか案の定というかレヴィには一口も手をつけてもらえなかった。あの時の気まずそうな顔には胸がいたむ。失敗も料理のスパイスの内と開き直り良かれと思って明るく努めたが、それがかえってレヴィに面と向かって「食べたくない」と拒否しにくい姿勢を強いてしまったようだった。

(あれは本当に反省しておりますわ……)

新居内の自室にて日記帳を見返していたフィーチェは諸々の昨晩の失敗を思い出し、顔を覆った。しかし昨日の顔合わせからこっち、フィーチェがレヴィに対して行ってしまった失敗は料理だけではなかった。

(お風呂を沸かしたら温度調節を間違えて熱湯をレヴィさまにかけてしまいましたし、レヴィさまがお好きだという曲を枕元で演奏したら凄く迷惑そうに止められましたし……空回りばかりですわ)

簡単だと、そう思っていたのに。現実はそう甘くはなかった。フィーチェは今まで知らなかったのだ。火付け石を使って種火を作ることの大変さも、湯加減の調整方法も、楽器を適当に鳴らしたら不協和音にしかならないことも。何もかも初めてのことで、今までアシュブランテから割り当てられた仕事しかしてこなかった自分の経験の浅さを悔いた。ただでさえ要領が悪くて仕事で迷惑をかけているのに、更に管轄外の家事労働など覚えようと思うことすらなかった。引きこもりの自分が楽器なんか覚えたところで聞かせる人もいないと、それどころかその他の娯楽さえどうせ一緒にやってくれる人などいないからと遠ざけてきたことを今になって猛烈に後悔している。たとえ無駄なこととして終わったとしても少しくらい視野を広げて仕事以外のことも経験しておくべきだったと。

(今更になってそう考えても遅いですわね……でも、いえ、だからこそ今からでも巻き返せるところは頑張らないといけないのですわ)

せめてこれ以上の後悔は全てのことが終わってからにしようとフィーチェは顔をあげる。見れば時計の針がもうそろそろ天界にも夜明けがくると教えてくれている。今日もまた一日が始まろうとしているのだ。後悔して立ち止まろうと婚儀の日に向かって時間が前に進み続けるのであれば、止まっている時間がもったいない。フィーチェは日記帳を閉じ書棚に戻すと朝の準備をするため立ち上がった。

(いったい何のお話をしていらっしゃるのでしょう?)

フィーチェは木陰に身を隠しながら庭園の東屋で集う三人の神々の様子を窺がう。この庭園の背の高い薔薇の植木は身を潜めるのにちょうどいいなどと考えて、フィーチェは腕に抱えている小さな籠を大事そうに持ち直した。今彼女は天界の共有領域の一画にあたる庭園へと来ていた。先刻レヴィが仕事で家を出たので、昨晩のうちに用意しておいた食事を急いで詰め後を追ってきたのである。頃合いを見計らって颯爽と登場し、食事を届けることで気の利く女性と認識してもらおうという寸法だ。しかしここまで追いかけてきたはいいが、フィーチェはレヴィ以外の者がいる状況に二の足を踏んでしまい出ていく事ができずにいた。

(あのお二人はロアさまにアグマさまですわね。よくお三方で楽しそうにお話していらっしゃるのを拝見しますわ。本日はお二人とお仕事がご一緒なのかしら。それならもう少し多めに食事を用意しておくべきでしたわね)

一人前の食事の入った籠をちらりと確認してそんな事を考えていると、にわかに東屋の方が賑やかになる。何事だろうと再び木陰から顔を出すと東屋の入り口に銀髪を風に揺らした一人の女性が立っている。彼女はレヴィを指さして何事か話すとずんずんと東屋へと入り、既に定員でいっぱいの長椅子へと身をねじ込んだようだ。十二神であるロアを始めとして上級神であるレヴィ、アグマに物怖じせず突っ込んでいく様子を見るに、銀髪の女性もおそらく十二神に連なる眷属神相当の上級神だろう。遠くて何を話しているのかは聞き取れないが漏れ聞こえてくる声は鈴のように美しく、しかし弓の弦のような張りを伴っていて女性の神としての凛然さが窺えた。しかしなによりも目を惹くのは彼女のそのたぐいまれなる容姿である。ザクロのように深い赤をたたえた瞳は大きく、まるで宝石のような輝きをもっており、また髪は風にたなびく銀糸のようで絡みひとつ知らず、彼女の体に沿って川のように流れている。露出の多い服装によって惜しみもなくさらす肢体は名のある彫刻家が作った作品のように均整がとれており、白い肌はその下の血管の赤をほのかに透かして煽情的でありつつもはつらつとした健康的な雰囲気を纏っていた。一言でいえば絶世の美女である。見目の優れた者の多い天界においてもここまでの麗人はまずいないだろう。フィーチェも同性でありながらその美しさに自然と息を飲んだ。

(なんて美しい方なのでしょう)

遠くからでも人目を引く容貌に道行く人々も振り向いたり足を止めたりしている。きゃあきゃあと他の女神たちが黄色い声をあげているところを見るに、どうやら彼女は有名人らしい。女性が軽く片手を振って見せれば女神たちは更に沸きたち「ベレッツァ様~」などと悩ましい声を上げて次々に卒倒していく。

(ベレッツァ……あの方のお名前でしょうか)

ベレッツァと呼ばれた女性は群れをなす神々には既に興味を失ったようで、レヴィをはじめとした男神三人にあれやこれやと話しかけている。ロアとアグマは適当に相槌を打つなり茶々をいれるなりしているようだが、一人レヴィだけは時折得心したように熱心に聞き入っていた。その様子にフィーチェは不思議と目が離せなくなり、同時に人知れず胸にズキンとした感触を覚える。それは数千年の時を生きてきた神たる自分でも経験したことのない痛みだった。胸の内から、その破れた傷口から、得体の知れないものがじわじわとにじみ出てくるのを感じる。

(レヴィさまのあんな表情、わたくしには……)

心の臓がどろりと溶けて石灰のように固まり重みを増したかのような、そんな不愉快さが胸に広がっていってフィーチェは困惑した。どうした訳か急に体調を崩してしまったようだ。フィーチェはそう判断し、その場にうずくまって痛みが鎮まるのを待った。ここ最近慣れないことをしているせいだろうかと、ゆっくり深呼吸して不可解さが過ぎるのをまつ。

(どうして……)

体調が悪くなると精神的にも参るとよく言うが、今のフィーチェがまさにそれだった。普段なら考えないようなことも痛みと共に流れてでてきて頭を混乱させてくる。

(お似合いの光景ですわ。あんな風に綺麗でみなから慕われているような立派な方が、きっとレヴィさまには……。いいえ、違う。そうではなくて、わたくしではどのような方の隣にも並び立つことなど……)

痛いのは本当に胸か、それとも―

「あらやだ、あなた大丈夫? あなたもベレッツァ様の魅了の力にやられたの?」

思考がねじ切れそうになる直前、にわかに降ってきた声によってかろうじて我に返る。視線を移せば、つい先ほどベレッツァと呼ばれた女性に熱をあげていた女神たちが気遣わしげにフィーチェを少し離れたところから見ていた。その声に周囲の神々も視線を投げてきており、思いがけず注目を集めていることに気づいてフィーチェはひどく狼狽した。「大丈夫です」の一言が喉に絡まって上手く出てこず、かろうじて立ち上がった体はこわばって錆びた機械のようだった。

人が、たくさんの人が一斉にこちらを見ている。何事かと純粋な興味の目で、あるいは忌避の目で、とがらせた感情を視線にのせて刺してきているとフィーチェには感じられた。

「あなたどこの子? ここらじゃ見かけない恰好だけど……」

また別の女神が今度は怪訝そうな顔でフィーチェを上から下まで見やる。顔と体を隠した異様な出で立ちに警戒しているようだった。その瞬間、何故だかフィーチェは急に自分の恰好がひどく恥ずかしいもののように感じられた。今まで特になんとも思ってなかったというのに、今この出で立ちで人前に立っていることに猛烈な羞恥心を感じるのだ。俯いた顔は今にも火が噴出さん勢いで真っ赤に染まり、額には汗がにじんだ。

「ねぇ、なんか様子がおかしいし、ベレッツァ様のことを覗き見してたみたいだし……警備に差し渡したほうがいいんじゃないかしら」

そこまで聞いてようやく金縛りからとけたフィーチェは礼も言わずに駆け出し、その場から逃げだしてしまった。なんなのよ、と女神たちが周りにも聞こえるようにわざとらしく困惑する声が背中に深く突き刺さった。

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