蛇花神婚譚

第8章 初めての邂逅

Work by もっさん

「おねえさま、わたくしもいっしょにいきたいですわ」

幼いフィーチェが駄々をこねて足元に纏わりつくのを稲穂の神、サクナダイナホヒメが慣れた様子で宥める。

「駄目よ、フィーチェ。あなたをこの城の外にはだすなとアシュブランテ様からきつく言われているの。いい子だから待っててちょうだい」

サクナダがフィーチェと同じ目線の高さまで屈み、その大きくまん丸な瞳を覗き込みながら頭を撫でると、彼女は頬をぷくぷくに膨らませて抗議し始める。

「どうしてわたくしばかりお外にでてはいけないんですの?ふこーへーですわ」

「フィーチェったら林檎みたいになってるわよ」

サクナダがくすくす笑うと不服そうな顔をしたフィーチェがますます頬を膨らませるので、更に笑いを誘ってしまう。そうしてひとしきり笑い終わったサクナダは笑みを収め、ゆっくりと言い含めるように話し始めた。

「いい、フィーチェ? あなたは特別な力をもった神様なの」

フィーチェの小さい肩に触れながら慈しむように、しかしどこか不憫そうな目をしてサクナダは続ける。

「その力はあなたが望んでいようがいまいが関係なく周りの人達に影響してしまうの。それってとっても怖いことなのよ。小さいうちにはまだそう大きな力はでないけど、そうね……あなたがもっと大きくなって私ぐらいの背丈になる頃には、あなたのことを無視できる人はいなくなるわ。そうなるとあなたのことを自分のものにしたくてたまらない人達がでてきて、あなたのことを攫っていってしまうわ。そんなの嫌でしょ?」

もう何度も言われて耳にたこができている、とフィーチェが不承不承といった顔で口を尖らせた。

「でもそうなっても、おねえさまたちがたすけてくれるでしょう?」

引き下がるフィーチェにサクナダは即座に「今はね」と返す。その言葉の意図が掴めずフィーチェはきょとんと瞳をさらに丸くした。

「今は何かあっても私たちが助けてあげられるわ。でも私たちもあなたの傍にずっといられる訳ではないの。私たちはきっと……いずれは誰かと結婚しなくちゃいけないから。そうなるとお嫁さんやお婿さんの傍にいて彼らを守らなくちゃいけなくなるわ」

そこまで聞いてフィーチェは不安げな顔でサクナダを見つめる。

「はなればなれになっちゃうのですか?」

サクナダは逡巡の後、その言葉を肯定しそうになった自分に気づき首を横に振った。フィーチェのことを壊れものを扱うようにそっと抱きしめると、願い事をするかのように言う。

「どんなに離れていてもあなたを想う気持ちだけは、ずっと傍にいるわ」

自身に言い聞かせるように囁いたサクナダの、その遠い視線が捉える先になにがあるのか、幼いフィーチェには分からなかった。

疲労が溜まっていたのか、しばしうたた寝してしまったフィーチェは振り子時計の鳴る音で目を覚ました。随分と幼いころのことを思い出してしまったと苦笑する。子供のころに戻りたいと思うほど弱気になっていたとでもいうのだろうか。

(稲穂のお姉さまもわたくしに頑張れとおっしゃっているのかもしれませんね)

優しく抱きしめてくれた感触に名残惜しさを覚えながらも、フィーチェは軽く頬を揉んで夢の残滓を完全に拭い去り、時刻を確認する。見れば時計の針は花曇りの刻を示していた。もうこんな時間になっていたのかとフィーチェは俄かに緊張を取り戻す。そろそろ顔合わせの時間となる。出迎えの準備をしなければと、フィーチェはそろりと台所の方を振り向いた。先刻の失敗の数々を思い出し再び胸に暗雲が立ち込めそうになるも、気を新たにしながら立ち上がる。失敗しても笑顔で振舞うことが肝要だと書物にも書いてあったではないか。

「笑顔、笑顔です」

 両手で表情筋を無理やり上向かせる。心なしか少し頬がゆるんだように感じる。よし、と握りこぶしを作って力を込めたフィーチェは玄関へと向かう。

(いよいよですわ)

長年想い続けていた者との初めての邂逅への期待と不安を胸にフィーチェはレヴィの到着を待った。

一方そのころ、当のレヴィは米俵のようにシャルカに抱えられながら虚空を舞っていたのだが、それは彼女のあずかり知らぬところであった。

(どうしましょう……間近で拝見するレヴィさまがあまりにも素敵で、お美しくて、出づらくなってしまいましたわ。わたくしなんかがお会いしても本当に宜しいのでしょうか)

玄関口からレヴィたちが到着するのを確認したフィーチェは急に恥ずかしくなってしまい、いきおい物陰に隠れてしまっていた。建物の柱から顔をほんの少しだけ出してレヴィ達の様子を窺がう。何故か子猫のように担がれているレヴィは上職の者らしき神に何事かをやいやいと言っているが、遠くて内容まではうまく聞き取れない。ずんずんと迷いのない足取りでレヴィを担いだまま悠然と歩を進めるあの人が天空神シャルカ様だろうか、とフィーチェはアシュブランテから事前に紹介されていた人物像を思い出していた。

(髪色や背丈がアシュブランテ様からうかがっていた通りですし、あの方がシャルカ様で間違いないですわね。お会いする方が一度にお二人もいらっしゃるなんて凄く緊張しますわ。レヴィさまお一人だけでいらっしゃると思っていましたのに……)

想定外の人物がいることに動揺を隠せなくなっている自分を自覚すると、ますます焦燥感がつのってくる。早く声を掛けなければ、挨拶をしなければと気持ちだけは急いているのに体がこわばってしまい、フィーチェは物陰から身を出す機会を完全に逸していた。そうこうしている内にレヴィとシャルカは居間へと入っていってぱたりとその扉が閉じられてしまい、思いがけず外に出される形になってしまったフィーチェは慌てふためいた。

(後からあの扉を開けて入るなんてできませんわ……)

そんな視線と注目を集めそうなことなどとてもできない。どうしたものかとフィーチェが気を揉んでいると今度は入ったばかりのシャルカが一人で出てきた。きょろきょろとあたりを見渡しながら次々に空いている部屋へ顔を覗かせ、誰かを探している様子だ。フィーチェの担い持つ職能の影響を避けるため、この御殿には下級の神はおろか木っ端精霊一匹さえいないはずである。それでも誰かを探しているということは―

(わたくしの事を探していらっしゃるのかしら)

もしそうならすぐに出て行き声をかけるべきなのだが、完全にタイミングを逃し隠れ潜んでいたことを追求されたらどうしようという不安から足が動かない。

(せめてレヴィさまお一人ならなんとか頑張ってご挨拶できそうなのですが……)

とそこまで考えてはたと気づいた。そうだ、この隙にレヴィの方に挨拶しに行けば良いと。レヴィとシャルカなら前者の方が圧倒的に話しかけるハードルが下がるうえに、一人味方をつければもう一人にも声を掛けやすくなるではないか。普通なら上役の方から挨拶するのが礼儀というものだが、このさいシャルカの方が来ていたことには気づかなかった振りをしてしまおう。そうしましょう、そうしましょうとフィーチェは足音を消していそいそと居間の方へと進み寄った。幸いなことに今しがたシャルカが出て行った際に扉を開け放したままにしていったため、扉を開けるというプレッシャーのかかる行為はしなくても済みそうだ。

(第一印象が勝負を決めると書物にもありました。そして大事なのは笑顔と元気。どちらもわたくしには枯渇して久しいものですが、ここが一番の踏ん張りどころ。たとえ枯れ果てたものであっても狂い咲かしてみせますわ)

極度の不安と緊張からかえって興奮してきたフィーチェは心中では鼻息荒く勇ましく、実際には呼吸が浅く過呼吸ぎみになりながらレヴィのいる居間へとそろりと近づく。するとその衣擦れの音に気付いたのかレヴィの方から声を掛けてきた。

「誰だ。でてこい」

いつもなら人当たりの良い笑顔を浮かべながら他者へと愛嬌を振りまく彼だというのに、ふいに見せたぶっきらぼうな声にフィーチェは戸惑い、物陰から出ようとしていた足をついひっこめて息をひそめてしまった。しかしここまできて出て行かないという選択肢は残されていないことをフィーチェとてよく理解している。必要なのは初めての顔合わせの瞬間という人生一大の舞台に臆さず上がる度胸とその覚悟である。浅く繰り返す呼吸を意識して深い呼吸に切り替え、震える手が少しでも止まるように胸の前で合わせる。大丈夫、大丈夫、レヴィさまはお優しい人と、星に願いごとをする時みたいに胸の中で繰り返して自身を宥める。そうしてレヴィが次の誰何の声を掛けようとする頃、フィーチェが恐々とではあるがレヴィのいる方へ歩きだし、その姿をさらした。午後の柔らかな日の中にぼんやりと全身ローブ姿のフィーチェが浮かび上がる。しかし下を向いたまま顔を見上げることができずに硬直してしまう彼女をレヴィは訝しげに眺めた。

こういう場合なんて声をかければいいのだろうか、とフィーチェは困惑して声を詰まらせた。レヴィの虫の居所が悪いことなど想定していなかったためである。政略結婚の話ゆえ歓迎はされていないとは思っていたが、ここまで露骨に嫌悪感を表に出されるとは思ってなかった。いや、嫌悪感というより不信感だろうか。どうも彼は自分のことを不審人物としてみなし、警戒しているのではないだろうか。どうしよう。ここでいきなり食事の誘いは少し、いや大分変だと思う。レヴィがフィーチェのことを警戒しているなら、もう少しお互いに落ち着いた状態でやるものだと思う。ではまずフィーチェがやるべきことは―

「何者だ。何故隠れていた」

(……誤解を解くところからですわね)

レヴィの鋭い詰問に背筋を貫かれそうになりながらフィーチェは必死に思考をまとめ始める。何者か、まずは身元をはっきりさせて自分がレヴィを害する存在ではないことを証明し、信頼してもらわなければ話は始まらないようだ。その所属、司る職能、普段担っている仕事について話せば身元の証明となるだろうか。しかしそんなこと口から出まかせで何とでも言えると返されたら、もう何も言えなくなってしまう。生憎と自身の存在証明になるような物品は持ち合わせていない。上級の神たるもの、身分証明書などの類は持っていなくても己の存在感だけで周りを屈服させるのが通例であり、誉というもの。しかしそのようなことフィーチェには無理であった。生まれ持つ職能が周りに影響を及ぼすもののため、むしろ普段は力を消せるようにメガネで顔を隠し外套で体を隠していなければならず、己の神力の証明などしようがない。レヴィにだって本当の姿を晒すのは神婚が成立した後でとアシュブランテからきつく言い聞かせられていることもあり、今この場でこれ以上身を晒すのは無理である。ああこんなことなら土下座してでもアシュブランテ様に付き添いをお願いするべきでしたわ、などとフィーチェの頭には後悔がつのった。

(まぁそんなことを申し上げたところで『甘えるな』と言われてぶたれそうですが……)

そんな思考の海に沈みかけているフィーチェのことをレヴィは獲物をしとめる前の蛇のように、静かにだが抜かりなく神経を這わせて見やった。ことの弁解をしようとフィーチェが顔をあげた瞬間、レヴィのその真っすぐな瞳は分厚いレンズ越しにも色鮮やかに鮮烈に輝いて見え、彼女の気持ちを紫電のように射抜いた。

(まるで早摘みの檸檬のよう)

弁を述べることを忘れ呆けてレヴィの質問には答えることができず、フィーチェは古い記憶が微かに蘇るのを感じた。忘れもしないあの思い出が突如として胸に去来し、自分でも戸惑ってしまう。

(そう、あのときもこんな瞳でわたくしを見ていらっしゃいましたね)

だからだろうか。

「あの、レヴィアーナさまでいらっしゃいますよね?」

つい彼へと問いを返してしまったのは。するどい視線も何故だかもう怖くはない。

「そうだと言ったら?」

そっけなく、しかし確かな神としての自負を感じさせながらレヴィが答えると、フィーチェの胸には俄かに万感の思いが飛来する。何も今の質問は本当にレヴィ本人かどうか確認したくて聞いたわけではない。ただ少し実感が欲しかっただけだ。長年、いや数百年間ずっと遠くから見るしかできなかったあの人が、遠い記憶の中でしか話す事のできなかったあの人が、本当に自分の目の前にいるという事実の実感が。

(本当にレヴィさまなんですのね……! レヴィさまがわたくしのことを見て、話しかけていらっしゃる。ずっと部屋のバルコニーから見下ろすしかできなかったあのレヴィさまが、わたくしと視線をかち合わせてお話している……! こんな幸せなことがあってもいいのでしょうか。いますぐ叫び出したいくらい嬉しいですわ……!」

後半は口から駄々洩れになりながらフィーチェは怒涛の勢いで氾濫する思考をなんとか押さえつけ、会って一番に伝えたかったことを渾身の力を込めて言い放った。

「ずっとお慕い申し上げておりました!!」

当サイトの内容、テキスト、画像などの無断転載、無断使用、自作発言、AI学習を固く禁じます。

Unauthorized copying, replication, use of the contents and AI learning of this site, text and images are strictly prohibited.

严禁对本网站文字、图片等内容进行未经授权的转载、非授权使用、AI学习。