蛇花神婚譚
Work by もっさん
白い石材の御殿の前に降り立ったフィーチェは周囲に人影がないことを確認すると大きく深呼吸をし、今日から暮らすことになる新たな住まいを見上げた。太陽光を乳白色の肌に反射する建物に目をすがめ、フィーチェはその外観をよく観察してみた。今まで居たアシュブランテの城よりは小規模だが、二人だけで暮らしていくには十分すぎる広さの建物であるようだ。近寄りながら耳を澄ませてみればどこかに滝でもあるのだろうか、小さくだが水が勢いよく跳ねる音が聞こえてくる。
「ええと、まずはお庭を見てみましょう」
水音のする方へ、玄関から横道に入って少し奥に進むと種々折々の草花が植えられた美しい庭に行きついた。よく手入れされた花々が植えられた花壇の前に膝をおろすと、その花弁に触れ状態をよく確認する。
「どうやら問題ないようですね」
生き生きと葉を伸ばす花たちを見てフィーチェが胸をなでおろした。新居に植えられたこれらの草花や植木は事前にフィーチェが育てたものたちである。今日のレヴィとの顔合わせに間に合うように育てたものだが、中には取り扱いが難しい花もあったので運搬に耐えられるか少々不安だった。無事に根を下ろしたようでひと安心である。
「このお庭を見て少しでもレヴィさまに楽しんでいただければいいのですけど」
さわさわと風に揺れる花を慈しみながら彼の人を想えば、いよいよ直接会うときが迫っているのだと緊張してくる。フィーチェは自身を落ち着かせるように胸のあたりをさすった。大丈夫。レヴィさまはお優しい方だから、きっと大丈夫だと。それに今から緊張していては直接会うときまでに身がもたない。少し落ち着こうとフィーチェは御殿の中を見てみることにした。
庭につながっている回廊から建物の中に入り長めの廊下にでると、通路の終わりに大きめの木の扉が目についた。開けて入ればそこは居間だろうか、品の良い調度品やソファーがしつらえてある部屋にでる。中央には長卓が置かれていたためフィーチェはそこに手持ちの荷物を置いて台所を探すことにした。
「レヴィさまがいらっしゃるまでにいくつかお料理を作っておきましょう」
会ったらすぐ食事を提供して歓談にもちこもうという腹積もりである。それというのも会話に自信がない自分でも食事をとりながらなら料理から話題をあげやすい上に間もつなぎやすいと考えたためである。それに何より食べ盛りの殿方は美味しい食事に弱いものだと書物にも書いてあった。これはレヴィさまに好かれる女神になるためのその第一歩でもある。
フィーチェは台所に行きつくとすぐにそこのテーブル上に置いてあったいくつもの包みを開けていった。これらは事前にアシュブランテや狩猟の神たる兄に頼んで調達してもらっていた食材たちである。朝採りの野菜に果物、それから新鮮なうちに絞めた肉類に魚などなど、あれこれ必要になりそうなものをリクエストしておいた。酒も杜氏の兄に何かしら見繕ってもらうつもりだったが、近々催される神議に供されるものを仕込んでいるとかでこちらにまわす分は少し後になるとのことだった。しかしそれを抜きにしても十分な食材が揃っている。あとはこれらを十全に調理して出せば完璧である。そう、きちんと調理できればの話だが。
フィーチェは日記帳と共にレシピ本を机の上に用意した。前者にはレヴィの味の好みが書かれており、後者には今日作るつもりの料理を付箋で目印をつけておいてある。腕まくりしてそれらを眺めながら早速、調理にとりかかることにした。料理はおろか火を使う事すら生まれて初めてだがレシピ本には初心者向けとして丁寧に解説ありと書いてあったし、それを熟読してきたのだから不慣れな自分でもまぁなんとかなるだろう。フィーチェは両手を握りしめて改めて気合を入れなおし、食材たちと向かい合った。さて本日作る予定のものは以下の三品である。
・チキンティッカ
・エッグブルジ
・パラックパニール
これらは以前レヴィが豊穣神の領域で友人達と好きな食べ物について語り合っていたときに彼が挙げたものになる。盗み聞きした当初は初めて耳にする料理名に頭の中で疑問符が乱舞したが、レシピ本を熟読した今なら分かる。まずチキンティッカとは香辛料とヨーグルトに漬け込んだ鶏肉を窯焼きしたものであり、エッグブルジとは要はスパイス入りのスクランブルエッグのこと。パラックパニールとはほうれん草を始めとした野菜類を炒め煮して仕上げにチーズを散らした食べ物らしい。
フィーチェは今一度レシピ本をフムフムと読み込み最後の復習をすると野菜の下ごしらえを始める。完熟トマトに丸々と太った玉ねぎ、おおぶりのニンニクにショウガ、コリアンダーといった香味野菜をひとつひとつ検品しながら水にさらして洗っていき、水気のとれたもののから順々に用途に応じた形に手早く切っていく。料理は初めてとはいえ植物の品種改良をする傍ら刃物を使うことが多いので、下ごしらえは順調に進んでいった。問題は火を使う段階になってから起こった。
「これに着火をするのですね……」
薪を押し込んだ調理用の炉の前で着火剤片手に恐る恐るといった体でフィーチェが呟く。草花の成育を職能にもつため火に対して人一倍恐怖心を抱いている彼女にとって、自らの手で火をつけるという作業は大変に困難を伴うものだった。怖い。思った以上に怖い。そうフィーチェは思った。うっかり手や服に引火してしまったらどうしよう。神の体とはいえ全身を火だるまにされたらただではすまないだろう。火傷で済むだろうか。皮膚がただれて元に戻らなくなってしまうかもしれない。そんな怖い想像が頭の中をぐるぐる回り始めた頃、これではいけないとフィーチェは勢いよく頭を振った。そんなことが起こらないように注意深く事を遂行すればいいだけのこと。大丈夫、大丈夫、うまくやれる。恐れるな、頑張れ自分。上がる心拍を感じながらもフィーチェは己を奮い立てた。
「そうです、逆に考えましょう。レヴィさまに美味しい食事を提供するためなら腕の一本や足の二本、焼きただれたところでどうってことありません。そうです、きっとそうです、そうなんです……!」
意を決して炉に近づく。着火に使うのは太陽神の領域で作られた火種石である。一見すると何の変哲もない丸石だが、神力を込めると表面に薄く火を纏うという代物である。フィーチェは恐々その石に触れ己の力を石の表面へと纏わせるも、しかし思ったように火がでてきてくれない。丸石はうんともすんとも言わず黙したままである。もしかしたら怖がって少しの力しか注いでないから点かないのかもしれない。そう思ったフィーチェはもう少しだけ出力をあげて石を撫でた。するとじわじわと丸石の表面が暖かくなってくる。もうそろそろ薪につっこんでもいいだろうかと思い始めた瞬間、突如としてぽっと石がフィーチェの手の上で火を纏った。
「あつっ……くない?」
驚いて思わず石を取り落としたフィーチェだったが、その手が火傷の様子もなく常通りなことに気づく。火を直接触ったはずなのに全く火傷をしていない。おっかなびっくりしながらも床の上でぽぽぽっと火をまとう饅頭のようになっている丸石を指先だけで軽くつっついてみる。やはり熱くない。
「火の精霊の力が込められていると聞きましたが、そのせいでしょうか……?」
どうやら素手でも安全に取り扱える品物らしい。とはいえやはり熱くなくても火が火であることに変わりはなく、どんなに小さなものであってもその焔が躍る様はフィーチェの恐怖心を煽るのに充分だった。フィーチェは石を直接触って持つのはやめ、大きめの匙ですくって炉の中に転がした。乾燥した松の葉に抱かれながら火の饅頭はその炎を徐々に大きくしていき、フィーチェが固唾を飲む傍らで薪へとその手を伸ばしていく。ぱちぱちと音をたてて調理に耐えられるほど大きく育つ頃にはフィーチェは緊張から汗びっしょりになっていた。
「はぁ、なんとかつきましたわ……。それでは次にお肉を漬け込んでおきましょう」
器にニンニク、ショウガ、調味料類を入れヨーグルトと合える。おそらく狩猟の神たる兄が気をつかってくれたのだろう、肉は既に手頃な大きさに切ってあったので手を汚すことがなかった。肉に味がしみ込むまでに少し時間がかかるため、フィーチェはパラックパニール作りにとりかかることにした。レシピ本には「鍋でほうれん草を軽く茹でる」とある。
「軽くとはどのくらいでしょう?」
水を汲んだ鍋を火にかけながら首をかしげた。
「でも大事なのは火が通っていることですし……とりあえず三十分ほど茹でておきましょうか」
料理初心者が失敗する要因のうちの一つ、「火をいれすぎる」を地で行きながらフィーチェは調理を続行した。さて次は香辛料を油で炒める工程である。幅広の鍋の上に油を垂らし火にかける。レシピ通りにきっちり分量を量ったスパイス類の中からクミンだけをざらざらと皿から流しいれると、油を吸ったそれらがパチパチと勢いよく音をたてて跳ね上がる。すると、ぴちっと跳ねた粒がひとつフィーチェの手に張り付いた。
「きゃっ、どうして跳ねるんですの? あいたっ、や、やめてくださいまし!」
盛大に音をたてて祭のように盛り上がるクミンたちに恐れおののき、フィーチェの口からは思わず文句の言葉が飛び出した。しかし当然ながら油の海を跳ねる彼らはそれに構わずますますボルテージをあげていく。この後刻んだ玉ねぎを入れなければならないというのにこの有り様はなんでしょう、とフィーチェは早くも涙目になった。ここに玉ねぎという水気のあるものを入れてしまえば余計にスパイスたちの鬨の声は激しさを増すだろう。そんな恐ろしいことはしたくない。今すぐ料理なんかやめてしまいたい。そんな己の弱気に頭をもたげられそうになりながらも、フィーチェは想い人の喜ぶ顔が見たいという一心でなんとか顔をあげ鍋の前に立つ。ここまできておいて引き下がるわけにはいかないのだ。
「わたくしはレヴィさまにお会いして、それで好きになって頂かなければならないのですから」
えいや、と掛け声をかけながら刻み玉ねぎを油へと投下する。突然の祭への乱入者にクミンたちは激しく驚きの声をあげた。
「えぇと次は『玉ねぎを飴色になるまでじっくり炒める』とありますが、飴色とは何の事でしょう?飴なんて今日日、様々な色がありますのに……」
よく分からなかったためフィーチェは更に次の工程へ進む事にした。細かく刻んだトマトを鍋に追加する。ヘラでトマトを潰していけば鍋全体が赤くなり、スパイスと野菜がそれぞれ混ざり合って爽やかでありつつも芳醇な香りがたってきた。しかしその中にあって少々、つんとした苦みのような匂いも混ざっている。どうやら跳ね上がりに怖がっている内に火が通りすぎて一部のクミンが焦げてしまったようだった。
「で、でもまだ許容範囲内ですわ」
フィーチェは誰にともなく取り繕い気を取り直して、追加のスパイスと共に水を鍋へと加えた。これでしばらく煮込むとレシピにはある。これまた「しばらく」とはどのくらいなのか首を傾げながら、とりあえずフィーチェはまたもや三十分ほど煮込むことにした。
続けてはエッグブルジである。みじん切りにしておいた野菜類をスパイスと共に炒め始める。
「野菜に火が通るまで炒める、とありますが何を目安に火が通ったとみなすのでしょう?とりあえず生焼けだと歯ごたえが悪くなるでしょうし、うんと火を通しておきましょう」
フィーチェは野菜とスパイスを黒くなるまで油の中でかき混ぜ、仕上げにそれらを包み込むように割りほぐした卵を流し込んだ。じゅわーとした音と共に香ばしい香りが台所に広がる。が、フィーチェにとって動物性のものが焼ける匂いは悪臭に等しい。
「うっ、結構匂いますのね……でも我慢ですわ。卵料理はレヴィさまが特にお好きなものですもの……」
息をとめながらペチョペチョと卵液を鍋の中でかき混ぜればエッグブルジというよりは小石の混じった砂利のような物体の完成である。
「書物に書かれているものとは少し見た目が異なりますが……まぁでも調味料の量は間違っていませんし味は問題ないでしょう。初めてにしては上出来ですわ。……多分」
ちょっと、いや大分自信がなくなってきたが作業を一度始めたからにはもう止めることはできないのだ。フィーチェは薄々失敗に気づきながらもとりあえず最後までやってみることにした。
「仮にひとつ失敗しても他の料理で挽回すればいいだけですわ」
と、煮込んでいたパラックパニールの仕上げに入るため煮込み鍋の蓋を開ける。しかしそこにあったのは火にかけすぎて焦げ付いた鍋底だった。しばし鍋の中と無言で見つめあう。どうしたものか……そうだ。
「お水で薄めましょう」
フィーチェは適当な器に適当な量の水を汲んで焦げ付いた鍋に流しいれた。ブシューと黒い煙があがり、えぐみのある匂いが鼻をつく。鍋底には黒いコゲカスの浮いた水が満たされた。これはどう見ても失敗なのでは? という疑念が頭を猛烈なスピードで駆け抜けていく。いや、まだ仕上げが残っている。それでなんとかなるかもしれない。そう思いフィーチェは茹ですぎてデロデロになったほうれん草をなんとゆで汁ごと突っ込んだ。そうしてヘラで焦げ付いたスパイス類をこそぎ取りながらゆっくりとかき混ぜ、おおかた混じりあったところで生クリームを投入しパラックパニールは一応の完成を遂げた。
最後に残ったのはチキンティッカである。漬け込んでおいた肉がちょうどいい塩梅に味がしみ込んでいるはずだ。フィーチェは肉を入れておいた鉢を手元に引き寄せるとその具合を確認した。
「うん、ここまでは大丈夫のようですわ。あとはこれを窯で焼くだけですわね」
壺のような特殊な形をした焼き窯を取り出すと、中に火のついた薪をくべ串に刺した肉を置いていく。これでこのまま所定の時間放っておけば完成するはずだ。この工程であれば失敗のしようもないだろう。あとは待つだけである。フィーチェは額の汗を手の甲でぬぐうと一息ついた。
「ふぅ……なかなか骨が折れましたわ。でもこれでレヴィさまをお迎えする準備が全て整いましたわ」
余った食材をしまいこみながら盛り付けの準備のため、手頃な器を小包のなかから出して洗う。少し、いや大分色々と失敗を重ねてしまったが、なんとかそれらしいものはできているのだ。初めての料理としては及第点ではなかろうか。フィーチェはそう自分に必死になって言い聞かせた。本当であれはここで味見の一つでもして完成品のチェックを行いところだが、作った全ての料理に動物性のものが入っているためフィーチェは口にすることができない。
「レヴィさまのお口には合えばいいのですけど……」
喜んで頂けるだろうか、と黒い謎の物体になってしまったエッグブルジやデロデロを超えて何故かヌルヌルしてきているパラックパニールを見下ろして自信なさげに呟く。必死に大丈夫だと言い聞かせても、これはちょっと失敗がすぎたのではなかろうか。しかしまだ一応チキンティッカが残っている。それだけでも普通に仕上げることができればまだ色々と取り返しがつくのではなかろうか。
そうこうしているうちにチキンティッカが焼け終わる時間となった。期待半分、不安半分で窯を覗いたフィーチェの目にうつったのは消し炭と化した串焼きだった。
「何故ですの!? 焼き時間は間違ってないはずでしたのに……まさか」
フィーチェは一連の調理を思い返しながらどこに問題があったのかをレシピ本の知識と照らし合わせた。その中で唯一、本に記述がなかったため目分量で行った工程があった。
「窯の中に火のついた薪をいれすぎたのでは……?」
一度それに思い当たるともう、そうとしか思えない。焼き時間が間違えてないなら火加減が強すぎたからこそ、ここまで燃え焦げてしまったのではないかと。フィーチェは消し炭のようにカチコチになった肉を串からはずし、皿の上へと移す。カラコロンと串焼きの肉に似つかわしくない硬質な音がした。まさか最後に残った希望までこうもたやすくふいにしてしまうとは、自分はどこまで要領が悪いのだろう。何をしても役立たずな己が本当に嫌になってしまう。フィーチェは盛大に肩を落としながら調理器具を洗い終え、居間のソファーに沈み込む様に腰をかけた。ここにきて今日一日にあった出来事の疲れがどっとでてきたように感じる。なんだか体が気だるくてすこし重い。
「どうしてわたくしはいつもこうなのでしょう。他の方であればここまでの失敗はなさらないでしょうに……」
そう例えばあの人なら――深い自己嫌悪の思考に捕らわれた時、頭に思い描くのはいつも同じ者だった。
(稲穂のお姉さま……あなたならこういう時どうされますか)
背もたれに身を預け天井を仰いだフィーチェは瞳を閉じ、瞼の裏にもう朧気になってしまった姉の顔を浮かべて滲む目頭をきつく拭った。
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